『侵食』1<<2<<3<<4
時計が十時を回った。そんなに早く返事がくるとは限らないのに、何度も何度もメールボックスを開く。何度見てもフシウからのメールは届いていなかった。
(今日はあきらめるか――)
手の震えは止まっていなかった。部屋の蛍光灯がちらりと揺れた。ふと今日はまだ自分の掲示板を見ていないことに気がついて、自分のサイトを開いた。真っ黒な背景に赤いドットの描かれた、画面に血を飛ばしたふうに思わせる悪趣味なホームページ。大樹はそれを気に入っていた。左に並んだメニューから「BBS」という白い文字を選んでクリックする。新しい書き込みがひとつあった。いつも来てくれる「rei」という人だった。書き込みの時間はほんの数分前だった。何気なくその書き込みを読んで、大樹は血の気が引いた。
『違っていたらスイマセン。もしかして侵食されたサイトに行きましたか? 少し色が暗くなっているような気がしたのですが。もしそうなら早く逃げてください』
(暗くなった……?)
言われてみればそんな気がする。でも気のせいではないか? ぐらぐらと揺れる頭を抱えて、ディスプレイを見つめる。何だか徐々に暗くなってきている気がする。目の錯覚ではないか?
(ちょっと待てよ。逃げる?)
reiの最後の言葉を見て、大樹はぐっと唇を噛み締めた。大樹はそのまま「レス」と書かれたリンクをクリックして急いで返事を書き始める。
『逃げるってどういうことですか? どこへ逃げればいいのですか?』
そう書いているうちにまた画面は暗くなった。明らかに侵食され始めている。視線を落とすとキーボードに置かれた手の震えはなぜか止まっていた。けれども心臓だけが早鐘を打っていた。喉の辺りから脈打つ音が響いている。
(俺は本当に感染したのか?)
書き込みを完了すると、いても立ってもいられなくて大樹はそのままツールバーの更新ボタンを押した。書き込みが増えていないことを確認するともう一度ページを更新する。ほかには何も考えられない。その間にも画面はじわじわと黒く染まっていく。黒い背景に白いフォントで書かれていたはずの掲示板は、少しずつ文字が灰色に濁っていく。背景の闇に飲み込まれている――そう感じられた。大樹はただ狂ったように更新ボタンを押し続けた。
カチッ。じわり。
カチッ。じわり。じわり。
カチッ。じわり。じわり。じわり。
ディスプレイから目が離せない。どくどくと血が流れる音がする。胸から、喉から、手から、頭から。体中に血を送りすぎているかのように全身が熱かった。真っ白だったはずの文字が墨のように暗くなったころ、押し続けた更新ボタンの下で変化が現れた。新規の書き込みだった。大樹は放心したようにそのままそれに釘付けになる。
『知らなかったのですか? まだ間に合うなら今すぐ逃げてください。感染しても助かる方法があるんで――』
そこまで読んで、文字は完全に消え去った。飲み込まれた。読むことを拒むかのように、闇に侵食された。大樹は慌てて「回帰廊下」を見たときのように、画面をドラッグして文字を反転させる。再び文字は現れた。
『――す。今日急激にその噂が広まり始めたので確証はないけれど、今すぐパ――』
また、侵食された。文字は再び煙のようにふわりと消えてしまった。頭の中で脈打つ音が一際大きくなった。もう一度文字を反転してみようとした。しかし画面の中に存在するはずの矢印のカーソルが見当たらない。マウスを押し付けるようにして動かすが、どこにも見当たらない。カーソルまで侵食されたのか――そう思ってから、はたと気がついた。
(暗い――)
なぜ今まで気がつかなかったのだろう。部屋の蛍光灯は点いていたはずだ。部屋の中が薄いベールを纏ったように暗くなっている。それがじわじわと色濃くなっている。フシウの最後の言葉を思い出す。「闇に飲まれる」――これは自分自身のことだったのか。鼓動がまた早くなった。ぐっと胸を押さえつけると、大樹はパソコンを睨み付けた。感染しても助かる方法がある? そういえば噂を調べたとき、最後の方の書き込みはまじめに読んでいなかった。早く逃げろ? 逃げれば助かるのだろうか。知らないはずのreiの泣いている顔が目の前に浮かんだ気がした。悲鳴のような声で早く逃げてと叫んでいる。
(逃げるっていってもどこに行けばいいんだよ――)
そう心の中で悪態をつくと、妙な既視感があった。心拍数は上がりきっていた。頭の中で鼓動が鳴り響いている。きちんと椅子に座っているはずなのに足元がふらついた。終わりのない鬼ごっこをしているときのように、体中が疲れ果てていた。
辺りは静まり返っていた。闇に包まれたこの場所で、光は急速に消え去った。数時間前までは見えていたものは、もうすべて闇に溶けてしまった。reiも――闇に飲まれてしまうのだろうか。
……いや、reiは助かるのだろう。自分が、最後の犠牲者だ。
(今なら面白い小説が書けそうなのにな――)
なぜかそんなことを考えた。
マウスを握り締めたまま、ゆっくりと大樹の意識は闇に包まれていった。
Fin.
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