『侵食』1>>>>>>

 逃げて 早く
 闇に飲まれる前に



   □ 侵食 □



『――
「逃げて。早く」
 顔を涙でくしゃくしゃにした瑠衣の悲鳴のような声が後ろから浴びせられた。逃げるって言ってもどこに行けばいいんだよ――靖は心の中で悪態を吐いた。そのまま瑠衣に背を向けて踵を返すと靖は再び走り始めた。先ほどからずっと走り続け、この終わりのない鬼ごっこに心拍数が上がりきっていた。頭の中で鼓動が鳴り響いている。ふらつく足に一歩一歩気合を入れないと今にも倒れてしまいそうだった。
 辺りは閑静な住宅街。闇に包まれたこの場所で、明かりを灯している家はひとつもなかった。もしかしたら、もうとっくに人の気配はないのかもしれない。数時間前まで絶えず聞こえていた悲鳴は、今ではもうすべて闇に溶けてしまったかのようにひとつも聞こえなかった。瑠衣はもう死んでしまっただろうか……。
――』

 そこまで一気に打ち込んだ大樹はやっと我に返った。部屋の中はもう薄暗く、パソコンの青白い光だけが浮かび上がっていた。ちらりと時計に目をやるとすでに時間は七時を回っている。もうこんな時間か――そう考えると、今まで忘れていた目の疲れとキーボードに貼り付けになっていた腕のだるさが一気に押し寄せてきた。
 大樹はとりあえずと口の中で小さく呟くと、立ち上がって部屋の蛍光灯のスイッチを入れた。突然溢れた大量の光に目のささやかな筋肉がついていかず、目の前が立ちくらみをした時のような暗転を繰り返した。足元がふら付き、大樹は大きな音を立てて壁へぶつかるように寄りかかった。
 ひとつふたつと小さく息を吐くと多少は目眩も治まる。覚束ない足取りで再びパソコンの前に腰を収めると、今まで書いた文章を読み返すことにした。
 陳腐なホラー小説。自分で批評するならば、そうとしか言いようがない。ありきたりな設定とうまくもない比喩表現。趣味で小説サイトを作り多少の常連もできたが、ここ最近はもうネタ切れに近かった。スランプといえば聞こえはいいが、どれだけ書いてもどこかで見たことあるような話になってしまうのだ。数ヶ月前に公表した短編が、意外にも好評だった。だからこそそれ以降に常連になった人を繋ぎ止めるために、アレよりも面白い――もしくは怖いといった方がいいのだろうか――を書かなければいけないと考えてしまう。力試しにと気軽に始めたサイトだったが、こうも欲望が突っ走ってはいい小説が書けるわけがなかった。
 二三度読み返すともう続きを書く気力も失せてしまって、大樹は途中かけの文章を保存してメールボックスのアイコンにマウスを走らせた。数秒の間をおいたあと、ぽんと軽快な音を立ててパソコンがメールの受信を告げた。煙草に手を伸ばしかけていた大樹は、ちらりとそのディスプレイを覗きこむ。新着メールは五通。そのほとんどが未承諾広告やメールマガジンだったが、ひとつだけ目を引くものがあった。
 件名は『お久しぶりです』――誰だろうとその名前に目をやると「藤田修一」とある。むうと唸りながら大樹は小さく首を傾げた。見覚えのない名前だった。

(間違えたのか……それとも出会い系の勧誘か)

 最近はよく間違いメールを装った出会い系の勧誘メールが出回っている。「間違えていますよ」なんて返信したならば「これも何かの縁ですし」みたいなことを言われ、何度かやり取りしていくうちに、メールが受信できなくなったなどと相手に言われて出会い系のサイトに登録させられるのだ。それに引っかかったことはなかったが、男の名前で来たのは初めてかもしれない。サイトに提示してあるメールアドレスはフリーのものだから、こっちのアドレスに感想などが送られてくることはない。いつもだったら知らない名前からのメールはすぐに削除していたが、興味半分でそれを開いてみることにした。ダブルクリックして開いたメールは出会い系の「間違いメール」とは違い、そこそこ長い文章だった。

『お久しぶりです。私のことを覚えているでしょうか。「回帰廊下」のフシウです』

(――回帰廊下? フシウ?)

 見覚えがある言葉だった。けれど頭の中で糸を手繰り寄せようとしても、うまくそれが掴めない。潔く思い出すことを諦め、大樹は続きに目を走らせる。

『もう結構前のことだから覚えていないかもしれませんが、うちのサイトに足を運んでくれたことを今でも感謝しています』

(あぁ「二人の灯火」の人か)

 大樹はやっと合点がいったというように、うんうんと首を振った。ネットサーフィンをしていた時にたまたま見つけた「二人の灯火」というホラー小説に心を奪われて、突発的にそのサイトの管理人へメールを送ったことを思い出す。サイトの名前もそのハンドルネームもちらりとしか見ていなかったから小説の題名しか頭に残っていなかったのだ。感想の返事も一応貰ったが、それは大樹と同じようにフリーのメールアドレスを使っていたのだろう。たぶん「藤田修一」というのは本名で、このアドレスは友人とのやりとりをする時に使うものなのだと大樹は推考した。
 「二人の灯火」は背筋の凍るような怖さがあったが、それを柔らかなタッチを使い独創的な世界観で描いていたので、なぜかずっと女性が書いているものだと思い込んでいた。男だったのか――別にそれがどうというわけでもないが、どこか仲のいい友達に裏切られた時のような気分に襲われ、少し大樹は肩を落とした。

『それはさておき突然のメールで驚かれていると思いますが、あなたもホラー小説のサイトをやっていると言っていたので慌ててメールをしたのです。今更ですがそちらのサイトにはほとんど顔を出さなくてすいませんでした。時間があれば行きたかったのですが、
 私はもうあなたのサイトには行けません』

 目が点になるとはこういうことだろうか。突然のその告白に唖然となってしまった。行けないと自分で言う奴がいるか? 来たくないのなら何も言わなければいいのに――。何も考えることができずにそのまま次の文章を目で追った。

『そして、もう二度と「回帰廊下」には顔を出さないでください』


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