『深緑の雨』
雨が降る。
私はそれに身を委ねる。
□ 深緑の雨 □
雨が降り出したのが分かった。
私は目を閉じたまま、体中の神経に意識の全てを集中させた。
頭の上でしとしとと雨の降り注ぐ音がする。
私の耳は季節の音を聞き分ける。
桜の散る微かな音が聞こえなくなったのは、ほんの数ヶ月前の話。
今はたぶんその枝に淡い緑色の葉が生い茂っているのだろう。
浅緑の葉は、雨粒に打たれてその身を震わせている。
体中にその小さな音が響き渡っていた。
これから一月もすればカラリとした空気が辺りを包み込むのだろう。
――けれど、私は梅雨の季節も嫌いではなかった。
降り止まぬ雨の中で、私は濡れるがままに身を委ねた。
雨の香りが――湿った土の香りがいつもに増して色濃くなった。
すでに湿気を帯びていた私の体が、じわじわと濡れていく。
服がぺたりと肌に貼り付いていた。
服と皮膚の間を縫って、液体がとろりと私の体を撫でていく。
このまま雨の中に溶けてしまえば、どんなに気持ちがいいだろう。
私の体を――汚れたこの体を綺麗に洗い流して。
そんなことを考えながら、私は雨音に耳を傾け続ける。
水流で柔らかな土の表面が洗われていく音がした。
地面を打つ水の音と、土の流れる音。まるで癒しの音楽のようだった。
心地よい音に包まれて、私はずっとその場に身を投じていた。
ふいに、まぶたの向こう側で光が降り注いだ。
何だろう――私は怪訝な思いを抱きながらも、そっと目を開けた。
……あぁ、なんて美しい緑!
私は頭を擡げていた疑問さえも忘れて、その素晴らしい光景に目を奪われてしまった。
雨に濡れて、濃く色づいた桜の葉。
今まで目を閉じて自分勝手に想像していた――それ以上に鮮やかな深緑。
私はずっと、きれいな音ばかりに気を取られていた。
けれど、見ることがこんなにも素晴らしいものだったとは。
心地よい音と緑に包まれて、私はいつまでもその感覚に酔いしれていた。
ぴちゃり。遠くで小さな音が聞こえた。
雨に濡れた土を踏みしめる音。
それと重なるように、はたはたと雨粒が傘にあたる音も聞こえる。
誰かが近づいてくる。
その姿は私からは見えなかったけれど、だんだんとその音は大きくなっていった。
こっちに来て、私と一緒にこの感動を分け合いましょう。
私は嬉しくなって、その人がこちらへやって来るのを待った。
その人はふと立ち止まった。一瞬にして雨音が人の気配を掻き消した。
はたはたと鳴る傘だけがその存在を強調している。
どうしたのだろう――私はぐっと身を伸ばして、その人の姿を探した。
遠くに鶯色の傘が浮かんで見えた。
深緑の中でゆらりゆらりとその鶯色が揺れている。
脳裏にその大きな傘を差し出す人の姿が浮かんだ。
私は笑顔でその人の胸元に寄り添うと、傘の下ではたはたという音を聞いていた。
心臓が飛び跳ねるように大きく鳴り響いていたことが、昨日のことのように思い出された。
ああ、こっちに来て。
私は溢れ返る記憶に身を潜めて、恍惚とした表情を浮かべた。
ぴちゃり。再び歩き始める音がした。
鶯色が小さく揺らめいて、ふわりと木の陰に隠れた。
音は――小さくなっていった。
その人は私に気付くことなく遠ざかっていく。
行かないで、私はここにいるのに!
私は叫ぼうとした。しかし私の口は塞がれたまま、開くことはなかった。
人の気配は完全に消え去ってしまった。
私は真上にある深緑の桜を見上げた。
桜の葉はさわさわと風に揺れながら、静かに雨を弾いていた。
深緑が私のことを蔑んでいるように見えた。
――誰か、私に気付いて。
私は柔らかな土の中から、顔を半分だけ覗かせていた。
落ち窪んだ眼窩からどろりとした液体が零れ、静かに私の顔を濡らした。
もう桜の木は見えなかった。
私は、流れる土とともに溶けていった。
了
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