『Listen』<<2>>



 私は呆然としていました。
 部屋がじわじわと寒くなっていくように思えました。
 目の前に横たわるその死体が、体温を失っているのです。
 流れ続けていた赤い液体は表面に膜を張り始め、しわくちゃの紙を思わせました。
 私は見つめることしかできませんでした。
 少しずつ、少しずつ、その死体は青白くなっていきました。
 血に染められた髪の毛が細い束になって固まっていきました。
 それでも大きく割れた頭の割れ目だけがじわじわと湿り気を帯びてていて、小さく波打っているようでした。

 どれくらいそうしていたのかは分かりません。
 徐々に「物質」となっていくその人を見ながら、私はふと思いました。

 警察――。

 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、これは殺人事件なのだと妙に実感しました。
 しかし叫んだところで人は駆けつけるのでしょうか。
 それどころか私が犯人にされてしまうかもしれません。
 そう思うと私は声さえ出せませんでした。
 部屋は耳鳴りがするほどに静まり返っていました。
 壁がどれだけ厚いのかは分からないけれど、あの向こう側に人がいるとも思えませんでした。
 私は急に怖くなってきました。
 私は一人きり。そして、目の前には……。

 私は、目の前の死体を、意思を持って見ました。
 思わず息が詰まりそうになりました。
 私は今まで、渇いていく血だまりや黒々と光る傷口しか見ていなかったのです。
 うつ伏せたその体の、床に密着した白い肌に、妙なものを見ました。
 青、紫、赤、茶色――なんとも言えないまだらな模様。
 時は確実に彼女の体を蝕んでいたのです。
 白く透き通っていたはずの肌は、目も当てられない模様に侵食され始めたのです。
 私は胃からこみ上げる嫌な臭いに体を折りました。
 もわりと吐き気を催す息が私の口から吐き出された気がしました。
 このままでは彼女は腐ってしまう。
 でも私にはどうしようもありませんでした。
 ただ、見つめることしかできませんでした。


 ――ごうと大きな風の音がします。
 この部屋にはカリカリと音が響いています。
 そして目の前の人の後頭部を、私はずっと見つめているのです――。


 何時間、何十時間、何日。
 どれだけの時間が経ったのかは分かりませんでした。
 少しでも知識があれば、目の前の死体を見れば時の経過が分かったのかもしれません。
 私はなす術もなく腐っていく彼女を見つめていました。
 まだらな模様は全身を覆いつくしました。
 私はそれを見ていられなくて、ずっと彼女の後頭部を見つめていました。
 その頭の割れ目から、いつしか白く蠢くものがねちねちと溢れてきました。
 蝕んでいる。彼女は確実に腐っていく。
 白い小さな蛆は、彼女の頭から飛び出し、床へと落ちました。
 うねうねと蠢き、私の手元へと近寄ってきました。
 なぜこんなにも長い間この部屋に誰も来ないのか、私には分かりませんでした。
 この部屋の持ち主は誰なのでしょうか。
 私?
 それとも、彼女を殺した誰か?
 私には分かりませんでした。


 頭がおかしくなりそうでした。
 手元で行く末を失った蛆――。
 その白く蠢くものが私の頭の中に入り込んで、脳みそを蝕んでいるようでした。
 私は震える手で頭を抱えました。
 この部屋で目覚めてから初めて目頭が熱くなり――そして急速に冷めました。
 私はそっと頭から手を離しました。
 そしてその手の中にあるモノを見ました。
 黒く、細い、そして長い――

 髪の、毛。

 ごっそりと抜け落ちた自らの髪の毛を見つめて、私は体が冷えていくのを感じました。
 指の間に絡まった黒い髪の毛は、意思を持ったかのように私に語りかけていました。

 ――気付け。
 ――どうして今まで気付かなかったんだ。
 ――ほら、確かめてみろ。

 嫌だ。
 私は本当は気付いていたのです。
 だけど、それを信じたくなかったのです。
 私はまだら模様の汚らしい腕を上げ、自らの頭を探りました。


 私の後頭部には、大きな割れ目が、ありました。


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