『崩壊』<<2>>>>




(ちょっと……)

 どういうこと? と続けようとして、思考が停止してしまう。
 突発的に込み上げてきた吐き気を堪えて、美智子は口を押さえた。
 秀哉の悪戯かとも思うが、妙にそれはリアルすぎた。
 少し伸びかけた爪に、間接のしわにこびり付いた黒く凝固した血の跡。
 そして赤黒く変色している断面に見える白い骨と、ピンク色の肉の欠片。
 赤というよりは紅といった感じの液体に覆われ、今でもじわじわと滲み出しているのではと思わせるほど、その肉片はつやつやと不気味に濡れそぼっていた。
 節くれ立ったその指は見覚えがあるのだが、誰のものか思い出せない。
 美智子は息苦しさと吐き気で涙をためて、呆然とそれを凝視していた。
 頭の片隅で、それが動き、間接を曲げたり伸ばしたりする仕草が見える。
 見覚えがあるが故に、より鮮明にその指が動き出す姿が浮かび上がるのだ。
 しかし誰のものかは分からないので、それは今見たままの――血に塗れたままの指の姿で頭の中を動き回っていた。
 美智子は本物かどうか確かめる勇気もなく、後ずさりをするようにベッドを這うと、棚の上で充電していた携帯電話を手に取った。


 手が震える。
 でも目は離せない。
 目を逸らしたら殺されてしまうような恐怖感が美智子を襲っていた。

 十八年間暮らしてきた実家の電話番号は、短縮ダイヤルを使うよりも早く打てる。
 携帯の液晶には目もくれずに番号を打ち込むと、通話ボタンを押した。
 カタカタと震える手で耳元へ携帯を持っていく。
 発信音が遥か彼方から聞こえるような気がする。少し気を抜くと意識を手放してしまいそうだった。

『はい、サイトウでございます』
「あ、美智子だけ、ど……」

 通話になった瞬間に焦りを隠せずに意気込んで言葉を発したが、その声に耳を疑った。

「お母さん……だよ、ね?」

 少しハスキーな低音の声色が特徴の母の声が――ほんの欠片だけ面影を残して、しゃがれた声へと変わっていた。

『そうだけど……どうしたの?』

 ゆっくりとした喋り方は変わっていない。けれど受話器の向こうでヒュウと変な呼吸音が聞こえる。
 一気に歳をとってしまったか、もしくは病に臥しているかのような、声。

「どうしたのって、それはこっちのセリフだよっ。どうしたのその声っ」
『ああ、ちょっといろいろあってね……風邪、ひいちゃったのよ』

 嘘だ。嘘、嘘だよ。
 十八年も一緒に暮らしてきたんだから、それくらい分かる。

「ねぇ、何かあったの? そっち、変なことなかった?」少し涙声になりながら、美智子はゆっくりと言葉を続ける。「秀哉、とか……」

 秀哉という言葉に、母親が小さく反応を示した。

『え、あ……別に何もないよ?』

 そう言葉を吐くと、母は苦しそうに咳き込んだ。ヒュウヒュウという呼吸がますますひどくなったかのように思われる。
 何かあったんだ――そう直感で思い言葉を繋げようとしたが、すぐに遮られてしまった。

『あ、でもね。秀哉、最近勉強してくれるようになったの』
「え?」
『前言ってたでしょ? 受験生なのに遊んでばっかだったって』

 その話は前に、嫌というほど電話で聞いていた。
 一月ほど前だったか――秀哉が勉強するしないということで揉め事になり、険悪な状況が何日も続いて、全員がノイローゼ気味になっていたのだ。
 家にいない美智子が必然的に愚痴を聞く役となり、しばらくの間はこちらも苛立っていたのだが、いつしか無事解決したのかそんな相談も受けなくなっていた。
 余程嬉しいのだろう――母が嬉々として話しているのは目に見えて分かる。
 けれどその声と息遣いのおかげで、それは絵空事にしか聞こえなかった。

「そう……じゃあさ、今秀哉いる? 代わってくれないかな」

 少なくとも、秀哉と母親の二人に、何か起こっているというのは分かった。
 だから、あの――見るのもおぞましい――指を送ってきた張本人に話を聞くのが一番だ。
 けれどすぐに予期していなかった返事が返ってきた。

『ダメ、代わらない』

 その声は冷たく、しかし震えていた。しゃがれた声が一層ガラガラと音を立て、最後にヒュウと荒い呼吸音が聞こえた。

 何で?
 どうして?
 今家にいないの?
 それとも……。

 疑問は募るばかりだが、母親の静かな口調に圧倒されて声が出なかった。

『今秀哉は勉強してて、邪魔できないから。話したいなら……あの子の携帯にかけなさい』

 母は言い訳するように言葉を付け足した。
 邪魔してはいけないのに携帯へ電話してくれと言うのは、どう考えてもおかしかった。
 母の冷たい言葉と、その無言の圧力に「今秀哉とは会いたくない」という心が見え隠れする。
 また受験のことで喧嘩でもしたのだろうか――そう考えたくても、目の前にある秀哉からの「贈り物」がそうではないと訴えかけている。
 嫌な予感がする。
 けれど、何が起こっているのははさっぱり分からなかった。

「……分かった。じゃあ直接かけなおすよ」

 結局何の反論もできないまま、美智子はそう答えた。
 母はあからさまに胸を撫で下ろしていた。いや、もう諦めたという感情にも似ていたかもしれない。

『そう……じゃあそうしてね』

 母は暗い声でそう呟くようにいうと、静かな声で学校はどうだとか他愛もないことを社交辞令程度に聞いて、一方的に電話を切ってしまった。



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