『動き出すキューブ』<<<<<<<<5




   5.

 エレベーターの中で立ち尽くす神谷の姿が頭から離れない。梨香に数学を教えていても、身が入っていかない。頭を抱えながら問題を解く梨香の姿を見ながら、佳代子はこぶしを握り締めた。まだ寒気が引かない。怖くて仕方がなかった。
 神谷は今自分の部屋で料理をしているのだろうか。佳代子が帰りに寄ってくれることを信じて、口の端を持ち上げて笑っているのだろうか。それともまだエレベーターで立ち尽くしているのだろうか――。そこまで考えて佳代子ははっとした。

(その前に、神谷はこのマンションの住民なの……?)

 一度考え出すと嫌な考えはぐるぐると発展していく。最初会ったときに十三階で降りたからそうだと思っていたけれど、そうだと言い切れることはない。十三階の部屋に入るところを見たわけではないのだから。もしも――もしもただ単に十三階で止まったから「ここだ」と言ったのだったら? ではあの人はなぜここにいるのだろう。どうしてエレベーターでしか会わない? 神谷とは何者……。

(――名刺)

 ちらりと見ただけで鞄に放り込んだまま、取り出した覚えがない。まだ入っているはずだ。慌てて床に置いてある鞄を手に取ると、佳代子は乱暴にその中を弄り始めた。

「どうしたの?」

 梨香が驚いて顔をこちらに向けた。しかしそんなことは気にしていられなかった。佳代子は小さな紙切れを探し続けた。――あった。

「何? 名刺?」

 興味をそそられたのか梨香は佳代子が手にしているものを覗き込んだ。立ちくらみのように頭が揺れた。住所――東京都S区――。考え違いだったらしい。やはりこのマンションの住民だった。マンションの名称の下に「一三〇四」と部屋番号が書かれている。しかし安堵していいものなのかは分からない。どちらにしてもあのエレベーターにいることは変えられないことなのだから。

「カヨ先生このマンションに知り合いいるの?」

 手元を覗いていた梨香が楽しそうに話しかける。佳代子は返事をしようとして顔を見やると、名刺を見ていた梨香の顔が一瞬歪んだ。

「あれ、おかしいな」
「何? どうしたの?」

 その怪訝な顔に不安を駆られて、佳代子は震える声で問い返した。

「この人、十三階に住んでるの? このマンション十二階建てだよ? 印刷ミスかな」

 むうと唸る梨香を見ながら、佳代子は血の気が引くのが分かった。家庭教師をし始めたころに、新築されてすぐに部屋を購入したと梨香の母親が言っていたのを思い出す。もう何年もここに住んでいる梨香が勘違いしているはずもない。どういうこと? 確かにエレベーターは十三階で止まったというのに――。

「大丈夫? 顔真っ青――」
「ごめん、梨香ちゃん」佳代子は震える声で呟いた。「今日はもう帰っていいかな」

 佳代子はその名刺を握り締めて立ち上がった。全身が震えていた。

「えっ」

 梨香は何が起こったのか分からないといった表情で佳代子を見つめていたが、佳代子はそのまま返事を待たずに駆け出した。

「ちょっとカヨ先生」

 がたんと大きな音を立てて梨香が立ち上がったのが分かったが、振り返れなかった。お茶を持ってきた母親と廊下でぶつかり、何か言われたが聞き取ることができなかった。今すぐ、帰りたい。もうこのマンションには来たくない。怖い、怖い――。
 部屋を飛び出し、佳代子はエレベーターの前で立ち止まった。また、三階で止まっていた。ずっとここに止まっていたのだろうか。それとも偶然なのだろうか。この中にまだ神谷はいるのだろうか――。唐突に吐き気が込み上げてきた。嘔吐感で涙目になる。もうこのエレベーターには乗らない。乗ったらどこかに連れて行かれそうだった。そもそもどこに連れて行くつもりだったのだろうか。ありもしない十三階。「13」――。
 佳代子がそのままエレベーターの前を静かに通り過ぎようとした時、音もなく扉は開いた。見なくても分かった。片目の視線が全身に絡み付いていた。

「今日は早かったんですね」

 体が硬直して動かなかった。帰る――早く歩いて階段に行くんだ。

「乗ってください。ちょうど料理が出来上がったところなんです」

 体がぴくりと反応したのが自分でも分かった。嫌だ、嫌だ。乗りたくない。神谷――いや「その男」は片目で佳代子を見つめている。静かに気配が動いた。男はその箱の中からぬっと手を伸ばした。絶対届かない距離のはずなのに、手を掴まれた。なぜ――なぜ今まで二回も触れられたのに気がつかなかったのだろう。佳代子の手の甲に伝わる男の手には体温がなかった。冷たいわけではない。佳代子の体温に同調している――触られているという感覚がないのだ。目でその状況を見ていたから、脳が錯覚していたのだろうか。身が竦む。力任せに箱の中に引き寄せられた。
 扉は、容赦なく閉じられた。

「さあ行きましょう」

 男は片方の目で佳代子を見つめていた。口の端を持ち上げて笑っていた。震える体を抑えて目を逸らした先で、佳代子は見た。今まで気にしたこともなかったボタンの数は、十二までだった。

 エレベーターはごとりと音を立て、ゆっくりと昇っていった。


Fin.











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