『動き出すキューブ』<<<<<<4>>




   4.

 本当に今までエレベーターで会ったのは、偶然だったのだろうか。佳代子は枕に顔を埋めながら考えた。こんな偶然ってあるのだろうか。あのマンションにはたくさんの居住者がいる。だというのに、毎回あの人にだけ会うというのはどう考えてもおかしかった。今までいろんな人と乗り合わせたことはあったが、二回三回と一緒になったことはない。だというのに三回も連続で――。

(……ストーカー、とか?)

 その言葉が頭に過ぎって、佳代子はぞっとした。佳代子が来るのを毎日エレベーターの前で待っている。そして終わる時間を見計らってエレベーターに乗り続ける神谷の姿――。

(まさか、まさかね)

 違うと自分に言い聞かせるけれど、そのイメージが頭から離れることはなかった。密室の中で一人、立ち尽くす。動かぬエレベーターの中、右目で扉の向こうを見据え、宙を泳ぐ左目は階数の表示をちらちらと眺める。扉の向こうに佳代子が現れるのを待ち続けるのだ。

「……会いたくない」

 佳代子は小さく泣き声を漏らした。ただの偶然かもしれないのに、怖くて仕方がなかった。握られた腕と手が冷えていた。ちらりと壁にかけられた時計を見ると、そろそろ出なければいけない時間だった。会いたくない。行きたくないけれど、梨香が待っている。梨香はもうすぐ受験だし、佳代子のことを慕ってくれている。佳代子はのそりと立ち上がると準備し始めた。絶対に会うと確証されたわけじゃないのだから、大丈夫……大丈夫。
 自分の体に喝を入れて、佳代子は深呼吸した。会ったとしてもたったの三階までの距離なのだから、無視すればいいのだ。


 マンションの前に辿り着くと、佳代子はやはり腰が引けてしまった。また会ったらどうしよう。嫌な汗が背中を伝った。階段で行きたいけれど、エレベーターの前を通らなければ階段までは行けない。もしも神谷がいたとしたら、エレベーターに乗らなければいけなくなるだろう。佳代子は覚悟を決めてマンションへ肩を怒らせて入っていった。

(……いない)

 エレベーターの前には誰もいなかった。周りを見渡しても神谷の姿は見当たらなかった。佳代子はそのままその場に座り込みそうになってしまった。やっぱり偶然だったのか――佳代子は自嘲的な笑いを零すと、ふら付きながらエレベーターに歩み寄った。考えすぎだったんだよ、こんな偶然よくあることなんだ。佳代子は安堵してエレベーターのボタンを押した。エレベーターは上へ昇る表示を出し、地下の駐車場から上ってきた。そしてゆっくりと開いた扉の向こうを見て、佳代子は叫びそうになってしまった。

「奇遇ですね」

 ねっとりとした目つきで神谷はそこに立っていた。足が震えるのが分かる。入りたくない、二人きりになりたくない。佳代子は蒼白な表情で神谷の顔を見つめたまま、その場に立ち尽くしてしまった。

「どうしたんですか、乗らないんですか」

 その言葉に促されて、勝手に足がふらりと動き出した。お願い、入りたくないの――そう願っても体は言うことを聞かない。小さな揺れを感じて、佳代子はその密室となる箱の中に身を投じた。神谷の視線が痛かった。ゆっくりと「閉じる」のボタンを押す小さな音さえ聞き取れた。三階のボタンが押されていることを確認すると、佳代子は俯いて口を固く結んだ。早く、着いて欲しい――。ゆっくりとエレベーターは動き出した。

「ここまで来るとなんだか運命を感じますね」
(感じない――あなたが勝手にエレベーターで待っているんでしょ?)

 佳代子は声にならない言葉を、胸の中で吐きつける。

「今日、終わったらうちに来ませんか? これから料理するんですけど」
(行きません。行きません)

 寒気と冷や汗に塗れて、佳代子は早く三階に着くことを祈った。この短いはずの距離が永遠に続く気さえする。

「どうですか?」

 その言葉が耳に入った時、扉が開いた。開き切る数秒でさえ待ちきれず、佳代子は扉に肩をぶつけながら飛び出した。振り返ると神谷は右目を佳代子に向けて、返事を待っているかのように見えた。

「……行きません」

 蚊の鳴くような声で呟くと、神谷は慌てたように「閉じる」を押した。まるで聞こえないとでも言わんばかりに。大きな音を立てて扉は閉まった。

(何なのよ……私は絶対に行かないから)

 佳代子は心の中で悪態をつくと、射抜くほどにエレベーターを睨めつけた。喉を鳴らして息を呑むと、佳代子はゆっくりと梨香の部屋へ向かおうとした。そして、それを見て驚愕した。閉じてしまったエレベーターの階数表示が、まだ三階になっていた。エレベーターは静まり返っていた。中で――神谷は何をしているのだろう。少しの物音もしない。まだ扉を見据えているのだろうか。それとも最初に会ったときのように蹲っているのだろうか。扉は閉じているというのに、まだ片目で見られているような気さえした。佳代子は叫びたい衝動を抑えて、逃げるように梨香の部屋へ駆け込んだ。



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