『動き出すキューブ』1<<2<<3>>4>>5
3.
「この前の期末試験で梨香の成績上がったんですよ。先生のおかげです」
「いえいえ、そんなことありませんよ」
梨香の母親に笑顔でそう言われて、佳代子は自然と顔が綻んだ。ドアの前で梨香の母親は饒舌に話し続ける。梨香がその隣で「話長いよ」と声に出さず口を動かして佳代子に伝えて、ぺろりと舌を出した。佳代子は小さく声に出して笑ってしまった。
「じゃあそろそろ帰ります。お疲れ様でした」
「ではまた来週よろしくお願いします」
二人で会釈しあい、手を振る梨香に軽く微笑みかけた。佳代子は外へ出るとうんと背筋を伸ばした。今日は妙に肩がこった。早く帰ってお風呂に入りたい。そんなことを考えながらエレベーターの下ボタンを押す。最近の流行歌が口をついて出た。あの真面目な母親に感謝の意を伝えられて、それまでの憂鬱さなんてどこかへ行ってしまった。
鼻歌混じりに指でリズムを取って――ふとエレベーターの表示を見た。ちょうど五階を過ぎて四階が表示された。なぜだか階段で降りたい衝動に駆られた。いや、大丈夫だよ。あの人はもう、さっき自分の部屋へと帰ったのだから会うことはないんだ。佳代子は嫌な考えを押し出してエレベーターの前に立ち続けた。
ゆっくりと扉が開く。そして、後悔した。
(――やっぱり階段で行けば良かった)
「あれ、よく会いますね」
佳代子が立っているのを分かっていたかのように、その右目はすでに佳代子へ固定され口の端を持ち上げていた。
「えぇ……神谷さん、でしたよね」
佳代子は呟くように素っ気なく返して乗り込むと、できるだけ身を離すように距離を取った。でも密室は密室だ。そんな距離はほとんど意味をなさない。分かっているけれど、佳代子はこの人物が嫌で仕方なかった。
「今終わったんですか? 遅かったですね」
そうだよ、母親の長い話に付き合っているんじゃなかった。そうしたら会わなかったかもしれないのに。先ほどまでは褒めてくれたことを嬉しく思っていたはずの梨香の母親を恨みながら、佳代子は「はぁ」と再び曖昧な言葉を発す。
「そうだ、今度部屋に遊びに来てくださいよ」
唐突にそう言われて、佳代子は怪訝な目で彼を見た。
「お礼させてくださいよ、僕結構料理得意なんです」
神谷はそんな佳代子の顔を気にしていないのか、楽しそうに口の端を一層持ち上げる。
「……家庭教師の帰りにでも寄ってください」
そう言われたと同時に扉が開いた。佳代子は気味が悪くて神谷の顔から目を逸らしてエレベーターから降りた。
「また、声お掛けしますね」
背後から声が追いかけてくる。睨むようにして振り返ると、佳代子は見てはいけないものを見た気がした。神谷は、エレベーターを降りていなかった。その小さな箱の中に身を収めたまま、彼は佳代子を見つめていた。エレベーターの表示は上を指していた。そのまま扉は閉まった。
(……降りないのなら、どうして下に降りてきたの?)
佳代子はいても立ってもいられなくなって走り出した。
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