『動き出すキューブ』<<2>>>>>>




   2.

 佳代子は懐かしい数学の教科書に向かいながら小さなため息をついた。さっきからずっと憂鬱だった。原因は分かりきっている。あの男の人だ。ただでさえ薄気味悪かったというのに――今日も偶然エレベーターで乗り合わせてしまった。


『あ、この前の方ですよね』

 マンションに着くとエレベーターの前で話しかけられた。はっとして顔を上げると見覚えのある顔がそこにあった。

『本当に先日は助かりました』

 彼はそう言いながら口の端を持ち上げる。佳代子は引きつった笑いを零す。

『いえ、たいしたことはしていませんので……』

 佳代子は反射的に階段の方へ目を走らせた。またエレベーターという密室の中で二人になるのが憚れた。

『あ、来ましたよ』

 男がそう言うと同時にエレベーターの扉が開いた。

『三階でしたよね』

 彼はゆっくりとした動作で乗り込むと、「開く」のボタンを押しながら片目で佳代子を見て言った。

『……ありがとうございます』

 佳代子は小さな声で呟いて渋々エレベーターの中に入った。「3」のボタンが点っている。それを見つめて――佳代子は男の顔を見ないようにしていた。そう、三階までの辛抱だ。この前より短いのだから大丈夫。

『ここに住んでいるんですか?』

 男は相変わらず佳代子を凝視しながら声を出す。扉が閉まった。

『いえ、ここには家庭教師で』

 早く、早く解放されたい。そう祈りながら短く返した。ゆっくりと密室が動き出す。

『そうですか……あっそうだ』

 男は何を思ったのか何かを探す素振りを見せた。表示は二階。あと一階。

『これ名刺です』
『えっ』
『今度ゆっくりお礼させてください』

 手を握るように名刺を手渡された。スーツのジャケットの下の、そのまたシャツの下で、鳥肌が広がるのが分かった。首筋にまで寒気が走った。ちらりの覗いたその小さな紙には「神谷弘人」と書かれていた。三階が表示され、扉がゆっくりと開く。

『……じゃあまた機会があれば』

 佳代子は社交辞令としてそう述べると、逃げ出すようにエレベーターから飛び降りた。振り返ることさえしなかった――。


「カヨ先生、どうしたの?」

 佳代子は肩を震わせて顔を上げた。さっきまで問題集とノートを交互に睨めっこしていた女の子が、心配げな顔で佳代子を覗き込んでいた。

「梨香ちゃん――ごめん、考え事してたよ」

 佳代子は苦笑いを零すと、梨香はころころと笑った。

「お母さんに怒られるよー。早くやろう?」

 彼女は茶化すようにそう言って、解き終わったノートをはいと言って手渡した。佳代子はそれを受け取ると、頭の中で計算をしながら簡単な答えあわせをし始めた。梨香はここが分からなかったとか、この公式があっているか不安だなどと横から口を挟む。そのひとつひとつに教科書と照らし合わせながら説明をする。
 そうだよ、もう二度と会うことはない。神谷弘人――名刺に味気ないフォントで書かれていたその名前を覚えていても仕方がないのだ。私が連絡しなければ、彼には連絡の取りようがないのだから。大丈夫、大丈夫。
 ふと紙の上に書かれた数字に目がいった。「3」――。

『三階でしたよね――』

 神谷はそう言った。たしかに言ったのだ。現にエレベーターに乗り込んだ時、すでに三階のボタンは押されていた。

(なんで……)

 佳代子は全身が総毛立った。

(なんで私の行き先が三階だって知ってるの)

 この前だって佳代子は何階に行くとは一言も言っていない。だというのに――。扉が閉まった十三階のエレベーターの前でずっと佇んでいる男の姿が目に浮かんだ。下がっていく表示を片目で見ながら、いつ――何階で止まるのかを今か今かと待ち続ける。「3」で止まった表示を見て、神谷は笑うのだ。口の端を小さく持ち上げて。
 佳代子は身震いした。まさか、本当にそんなことをしていたのだろうか。でもそうとしか考えられなかった。でも、なぜ? わざわざそんなことをする必要があるとは思えないのに。佳代子は頭を振って思考を飛ばした。考えても仕方がない。今は梨香の家庭教師に専念しなければ。
 週二回の家庭教師。このマンションに毎日来るわけではないのだから、もう会うことはないだろう。
 ……たぶん。



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