『動き出すキューブ』1>>>>>>>>




 薄暗い密室で一人佇む。
 体を揺らして、あなたを想う。
 また、会えるかな。



□ 動き出すキューブ


   1.

 髪を振り乱して――そんな表現がよく似合う。その言葉さながらに佳代子はセットした髪型が乱れてしまうことなんて気にせず走っていた。ダークグレーのスーツで駅から徒歩十五分という中途半端な距離にあるマンションへと足を急がせる。ブレスレットのようなデザインが施されたブランド物の腕時計に目をやると、長針は十を指したところだった。

(このまま走ればギリギリ――間に合うかな)

 そう推考しながらも、小走りだった足をいっそう忙しく動かした。
 マンションとは言っても向かう先は自分の部屋ではない。中学三年生の女の子の家庭教師――知り合いの紹介といえども、あの真面目そうな母親が許してくれるだろうか。先に連絡を入れるべきかどうか迷ったが、佳代子は腹に力を込めて唇を噛み締めた。たぶん大丈夫。間に合う。一分や二分だったら大目に見てくれるだろう。もし小言を言われるようだったら電車が遅れたとでも言えばいい。汗ばんだ体に、安っぽいシャツとスカートが纏わりつく。荒立った息が耳についた。もっと体力をつけておくべきだった。マンションの前に辿り着いた時にはもう片腹がえぐれるように痛かった。
 デザイナーズマンションという名目の、素っ気ない茶色のその建物の一階に滑り込むようにして入ると、佳代子はそのまま階段に向かった。
 結構高いマンションのうち、家庭教師先は三階。エレベーターが来るのを待つより階段を使ったほうが早い。そう考えてエレベーターの前を通り過ぎようとして、ふと目についた数字に思わず自身に急ブレーキをかけた。二三歩通り過ぎてしまった足を戻して、もう一度確認する。エレベーターは運よく一階に止まっていた。すばやく腕時計に目を走らせると、時間は五分前だった。よかった、間に合った。佳代子は乱れた呼吸の中に安堵の色を含めると、慌ててボタンを押した。扉の上の「1」と書かれた数字の横に、上へ向かう矢印が表示される。ワンテンポ遅れて開いた扉に向かって、佳代子は急いで入り込む――はずだったのに、その場で度肝を抜かれてしまった。

「わぅ……」

 意味のなさない言葉が口をついて出てしまった。元から早鐘のように鼓動が波打っていたというのに、その出来事に一瞬心臓が止まってしまったかと思った。同時に熱を持った背中に冷や汗さえ滲んだ。その状況に行動を奪われたのは数秒にも満たなかっただろう。佳代子は慌ててエレベーターの中に入り込んだ。

「あの……大丈夫ですか?」

 そこ――エレベーターの隅に、男の人が蹲っていた。ピクリとも動かない。顔は膝に埋めているから確認できなかったが、その身なりからたぶん二十代後半から三十代にかけてくらいだろう。佳代子が入ってきたことも気付いていないのか、気を失っているのか、言葉に反応を示さない。それが妙に薄気味悪かった。

「気分、悪いんですか? 救急車呼びましょうか」

 佳代子が再び声をかけて肩に手を置くと、その男は小さく身じろぎをして顔を上げた。目が合ったとは言いがたいが、彼は佳代子の存在を認識したようだった。そして焦点の合わないその目が生まれつきのものなのだということを瞬間的に理解した。右目が佳代子を射抜くようにして捕らえ、もう片目はあらぬほうを向いていた。何故だか見ていられなくなって目を逸らしてしまった――と同時に、エレベーターの扉が音もなく閉まり始めた。

「あ……」

 重厚な扉は閉まる瞬間だけ大きな音を立てた。反射的にその音の元へ振り返ると、数秒の間を置いてその密室は勝手に動き出した。佳代子は内心慌ててしまった。誰かが上でボタンを押してしまったのか――このままでは何階に止まるのか分かったものではない。どうしたものかと考えを巡らせていると、唐突に腕をつかまれた。びくりと肩を揺らせて振り返ると、男は先ほどと変わらず佳代子を片目で見つめたまま、衣擦れのような掠れた声で呟いた。

「大丈夫です」
「あ、はあ……」

 佳代子はなんて返事をしていいものなのか分からず、曖昧な声を出した。

「部屋に戻って休めばいいので」

 男は瞬きさえせずに、片目で佳代子を見ていた。左目は相変わらず空を見据えて揺れている。佳代子は気味が悪くなってきた。大丈夫だと言い、部屋に戻ると言い――だというのに、なぜ腕を放してくれないのだろう。心なしかその握る手がどんどん強くなってきた気がする。痛くはないから離せということもできず、だからといって振り払うこともできない。男は佳代子の腕をつかんだまま動くことをしなかった。密室の中で見知らぬ奇妙な男に腕をつかまれて、いい気分になるはずもない。一瞬静かな沈黙が訪れた。油圧式のエレベーターの動く音だけが遠くで響いているようだった。

「あの……何階ですか」

 沈黙が続くことが怖くなって佳代子がそう言葉を発すると、男は口の端を持ち上げるような表情をとった。微笑むという行為のはずなのに、笑ったように見えないのはどうしてだろう。

「ここです」
「えっ」

 理解できずに佳代子がそう返すと、その密室が不安定な重力を醸し出してゆっくり止まった。

「十三階なんです」

 慌てて振り向くと階数表示は十三になっていた。密室を作り上げていた扉が重苦しく開いた。男は何事もなかったように立ち上がり、その空間から抜け出した。

「ありがとうございました」

 男は佳代子の方へ向き直ると、もう一度口の端を持ち上げる。

「いえ……」

 佳代子もつられて引きつるような笑みを浮かべると、居た堪れなくなって「閉じる」のボタンを押した。扉の向こうに男は消えていった。彼は扉が閉まりきるまで佳代子の顔を見つめ続けていた。やっと解放されたと思うと、佳代子は盛大なため息をついた。なぜあんなにも息が詰まったのだろうか。佳代子はぐるぐると回る思考を一旦停止し、今度こそ三階のボタンを押してもう一度腕時計を見た。エレベーターに乗り込んでから、まだ一分も経っていなかった。だというのに、三十分近く乗っていたような錯覚が沸き起こっている。ギリギリ間に合う時間だ。先に一言謝ってしまえばそんなに怒られなくて済むだろう。佳代子はそう考えてじれったい思いでエレベーターが三階に着くのを待った。
 三階で扉が開き一歩踏み出すと、佳代子はふと違和感を覚えた。さっき十三階で止まった時――そう、何も操作しないまま勝手に上がっていったから、誰かが上で押したのだと思っていたけれど……扉の向こうには誰も、いなかった。エレベーターの中で押した覚えもない。第一どこのボタンも光ってもいなかったのだから。佳代子は背筋に氷を落としたような感覚に襲われた。

(たぶん……ボタンを押したのに忘れ物をして部屋に戻っちゃったんだよね)

 佳代子はそう自分に言い聞かせて、家庭教師先へと足を進めた。



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