『答えてはいけない』前編<<後編




 ざわりと体が震えた。反射的にパソコンの画面を見てしまう。男は相も変わらず早紀を見て笑っていた。もう、目が逸らせなかった。
(違う……そんなこと思って、ない)
 そう心の中で語りかけながらも、それを口にすることはできない。

『そうだよねー。思い立ったが吉日、かな?』

 珍しく恵美子が意見を聞き入れた。だというのに、男の言葉が気になって仕方がなかった。こんな声聞こえない――もう一度自分に言い聞かせて、パソコンから目を離せないまま口を開く。

「うん、できるだけ早い方がいいよ」

 ――へぇ、早く死んでほしいのか。

 男はにやりと笑った。

 ――俺が、殺してやろうか?

(何言ってんのよ……)
 体の震えが止まらなかった。早紀はカタカタと音を立てる携帯電話を強く握り締めた。

『じゃあ明日にでも別れようかなー』
 ――死んでほしいんだろう。今、すぐ。

(違う、違う。こんなの答えちゃいけない)
 こんな状況ってありえるだろうか。自分は恵美子に向かって答えているというのに、すべてが男のいいように話が進んでいる。もう答えてはいけない、どうなるか分からない。

『早紀?』

 恵美子が怪訝な声を出した。
 何も言葉を発さなくなったことを疑問に思ったのだろう。

 ――答えろよ。

 聞こえているんだろうと言わんばかりに、男は射抜くような視線を早紀に投げかけていた。
 男との会話を成り立たせてはいけない。けれどもどう答えてもそれはうまい具合に両方に通じてしまう。

「大丈夫、聞こえてるよ」

 ――迷ってるのか?

 男はふいに笑顔を消した。その顔はなぜか洋画のホラーに出てくるような殺人鬼を思わせた。

 ――嫌い、なんだろう?

 男は言葉を噛み締めるようにして語り掛けた。
 その視線が絡みつくように早紀を縛り付けた。音を立てるほど急速に、血の気が引いていくのが分かった。

 ――その女のこと、嫌い、なんだろう?

 先ほどから何度も繰り返した言葉を、男はもう一度口にした。
 ……頭の中で、何かが弾けた。
 ぐるぐると男の言葉が駆け巡る。左耳と右耳が、両方の声に集中しているのが分かった。

『早紀はどう思う? こんなすぐに別れ話出してもいいのかなあ』
 ――死んだ方がいいと思っているんだろ、お前は。

 両方の言葉を理解している自分がいる。
 両方に答えようとしている自分がいる。
 そして、男の言葉の方が大きく聞こえている自分が、いた。

「……うん、その方がいいと思う」

 パソコンの中で男が笑った。悪魔のような笑みとはこういう物だと初めて知った。
 けれども、もう怖くはなかった。

『じゃあそうする。明日また報告するよ』
 ――じゃあ、俺が殺してやるよ。

 二人の声が重なった。

「……うん、よろしく、ね」

 声が震えた。その言葉を聞くと男は満足げな笑みを浮かべて、ふわりと消えてしまった。
 パソコンは真っ暗になった。

 呆然とその画面を眺めながらもう男が現れてこないことを確認すると、早紀は肩の力を抜いた。恵美子の声が遠くで聞こえていた。他愛のない話。今まで起こっていたすべては幻だったのかもしれないとも思う。
 けれども、恵美子に対する考え方はこの数分で変わってしまった。

『あ、もうこんな時間なんだ。アタシそろそろ寝るねー』

 何も知らない恵美子は呑気な声でそういった。
 自分勝手な恵美子。話すだけ話して、勝手に切ろうとしている恵美子。 人の話を聞こうとも思わない、最悪な恵美子。

「――うん、分かった」

 素っ気なく返しても、恵美子は気付かない。
 馬鹿な恵美子。私の、大嫌いな、恵美子――。

『じゃあね、バイバーイ』

 恵美子がそう言うと同時に、携帯はゴトリと音を立てた。
 かすかに唸り声が聞こえた。
 そしてどさっと大きな音が響いた。

『早、紀……』

 恵美子は苦しげな呼吸音を響かせて呟いた。
 もう後戻りは、できない。


 ――ほら、最後の挨拶だ。


 男の声が電話越しに聞こえた、気がした。

「……ばいばい、恵美子」

 早紀はそう告げると、小さな電子音を立てて電話を切った。
 ふと顔を上げるとパソコンは見飽きた映画のスクリーンセーバーを映し出していた。


 その画面はもう、男の顔を映し出すことをしなかった。






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