『答えてはいけない』前編>>後編


 誰かに見られている。
 それはまるで私に語りかけるように――。
 

   □ 答えてはいけない □



 体中に冷風が通り抜けたように、早紀は身震いした。
 ぐるりと回りを見渡しても別段変わりのない自分の部屋だ。六畳一間のアパートの一室。カーテンも閉じられているし、ドアもすべて隙間なく閉まっている。誰かに見られるなんてありえないと分かっていながらも、早紀はきょろきょろと目を泳がせた。

『どうしたの?』

 電話の向こう側からそう問われて、慌てて何でもないと返した。その瞬間、先ほどまでの突き刺すような視線は煙のように消え去った。
(気のせいだよね)
 そう自分に言い聞かせて、早紀はぐっと携帯電話を握り締め、会話の続きに耳を傾けた。
 電話の向こうで恵美子は不満げな声で恋愛相談を繰り返す。相談といえば聞こえはいいが、彼女は人の意見を受け入れようとしないからたちが悪い。ああ言えばこう言う。二言目には「でも」と言う。いつでも堂々巡りだ。自分を頼ってくれることは嬉しいが、そんな恵美子に対してどうも虫が好かない思いを抱いていた。
 とめどなく話す恵美子に簡単な相槌を打ちながら、早紀はふとパソコンの画面に目を向けた。パソコンは苦しそうな声を上げながら、スクリーンセーバーを永遠と動かし続けている。ゆらりと流れる、映画のひとコマ。たまたま見つけたその映画のスクリーンセーバーは、名前も知らない俳優や女優がふわりふわりと現れたり消えたりを繰り返し、最後に暗転してタイトルを映し出す。どこか味気ないそれは、パソコンを買ってすぐの頃にダウンロードしたものだったが、変えるのが面倒でそのままにしてあった。
 恵美子の声は耳を左から右へと流れていく。なんとなく理解はしているが、元がたいした内容ではないので適当に返事を返しても恵美子は気付かないだろう。意識をあらぬ方へ飛ばしていると、再び寒気が走った。

 ――……いなのか?

 男の、声が聞こえた気がした。
 早紀は体を強張らせると、辺りをもう一度見渡す。誰もいない。そんなことは分かっている。しかし再び現れた刺すような視線は、明らかに存在していた。

『それでさぁ、アイツこの前ほかの女と遊んでたんだよー』

 恵美子はこちらで起こっている異変に気付かず話し続ける。早紀は上の空で返事を繰り返しながら、怖々とその視線の元を探した。人に見られる場所なんてあるはずもない。それはさっき確認したはずだ。あるとしたら、見えない何かが――。

 ――嫌いなのか?

 今度ははっきりと男の声が聞こえた。
 反射的にその声のした方へ目を向ける。そこにあるのは、パソコンだけだった。
(私、疲れてるのかな……)
 早紀はすっと目を逸らそうとして、何か違和感を覚えた。もう一度目を細めてパソコンを――そのスクリーンセーバーが映し出された画面を一瞥した。
 首の辺りがどくりと大きく脈打った。冷たい汗が背中を流れた。ありえない状況を察知したのか、体が総毛立った。そこに映し出されるのは映画の俳優のはずだ。はずなのに――そこには、知らない男の顔があった。白い顔がぼんやりとこちらを見ている。
(やばい)
 何が「やばい」のかは分からないけれど、直感的にそう思った。しかし、その男は早紀を見て、不気味に笑みを浮かべた。

 ――その女のこと、嫌いなんだろう?

 男は笑いを含んだ声でそう言った。
 こんな状況で、答えられるわけがない。これに答えてしまったら、この男の存在を受け入れてしまうことになる。こんなもの、私が疲れているから見えるだけなんだ。もしかしたらマウスを触ってスクリーンセーバーを消せばすべては終わるのかもしれない――けれども怖くて近寄ることができなかった。
 絶対に、話してはいけない。

『ちょっと聞いてるの?』

 電話の向こうで恵美子が怒気をあらわにしてそう言った。
(聞こえない、私はこんな男の声なんて聞こえない)
 早紀は恵美子との会話に集中して、電話に向かって返事をしようと口を開いた。

 ――おい、聞こえてるんだろ?

 男が早紀の言葉を遮るようにして、ねっとりした声でそう言った。

『早紀?』

 恵美子が怒り口調で返事をうながす。
(私は――恵美子に答えてるの)
 誰に言い聞かせるとなく、早紀は唇を噛み締めてから震える声で答えた。

「ごめん、ちゃんと聞いてる、よ」


 そう言いながら早紀はパソコンから目を逸らす。
 男が笑った気がした。ふっと空気が揺れた。ちくちくと視線が刺さるのが分かった。


 ――嫌い、なんだろう?
『早紀、前言ってたじゃん? アイツちょっと浮気性の気があるって』

「……うん」

 ――やっぱりな。

 男は満足したようにそう言った。
(違う、あんたに答えてるんじゃない)
 そう言いたい衝動に駆られながらも、電話している手前そんなことを言うことはできない。

『今回の件でさぁ、もうアタシは』
 ――俺が、何とかしてやろうか?
『アイツのこと好きじゃないのかもしれないって思ってさ』

 重なるように男の声がする。こんな声は存在しないものなんだ――そう自分に言い聞かせながら、早紀は恵美子に答える。

「好きじゃないならさ」

 ――好きじゃないなら?

 それに反応を示したのは男の方だった。
 だからあんたに言ってるんじゃないんだってば――そう思いながらも、早紀は言葉を続けた。

「やっぱり別れた方がいいよ」

 そうかなあと曖昧な返事をする恵美子に、もう一押しと思って言いくるめようとした瞬間、男が口を開いた。

 ――違うだろ。

 その言葉に早紀は口を噤んだ。
 どくりどくりと心臓が早鐘を打っているのが分かった。

 ――好きじゃないなら……

 男は嬉しそうな口ぶりで言葉を続ける。


 ――死んでもかまわない、だろう?


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